みなさんこんにちは。東北大学文学部のたいようです。
今回も竹駒詣に沿って名所等を紹介していきます。
前回は大年寺の歴史について、江戸時代の創建時の話や、明治以降どのような展開があったのかなどを紹介しました。
(その3:http://saigaibunkakenkyu.livedoor.blog/archives/8042975.html)
今回も前回に引き続き大年寺周辺の紹介をしていきます。
みなさんが仙台の歴史と聞かれると、多くの人は伊達政宗がやってきて以降のことを思い浮かべることが多いと思います。
そこで、今回は伊達氏が仙台に大きな影響を与える前の段階、室町時代を中心に大年寺山周辺の歴史を追っていきましょう!
大年寺が建立される前、ここにはどのような歴史があったのでしょうか。
此辺(ほとり)元和の頃迄
は粟野国重の居城
にして、其跡今は川上
となり候、宮澤宗禅寺
は国重の菩提所にて、
石碑も今にありとかや、
①「粟野国重の居城」とは何を指しているのかについて
粟野氏は戦国時代に名取郡東北部を所領とした在地領主でした。古くは鎌倉時代に陸奥にやってきたとされており、足利尊氏に従ったことを契機に名取郡根岸城に移ったとされている。この根岸城というのが茂ケ崎城のことだろうと推定されており、この茂ケ崎城の跡に大年寺が創建されました。つまり、大年寺は茂ケ崎城址に建てられたのです。
近年茂ケ崎城の遺構調査が行われた結果、茂ケ崎城は現在の仙台放送を中心にしていたと考えられ、城域がどこまで広がっていたのかは正確には分かっていないものの、空堀などの遺構が現在でも確認できます。
粟野氏については、寛正年中(1460~1466年)に本拠を北目城(太白区東郡山)に移したことや、伊達成宗に敗れ伊達氏の支配下に入ったことなどが明らかになっています。
粟野氏の中でも、粟野宗国(重国)は伊達氏有力家臣として伊達政宗のもとで活躍し、磐井群大原(岩手県一関市)に所替えになったといわれています。その後嫡流は宮城郡松森に戻ったものの、元和元年頃に所領没収となったそうです。
これらをもとに、「粟野国重の居城」を検討してみましょう。恐らく、粟野国重は粟野宗国(重国)のことを、正確には事実と異なるもののその居城は茂ケ崎城のことをそれぞれ指していると考えられます。そして「元和の頃迄」というのはよく分からないものの、当時の茂ケ崎城のことか、あるいは没落した粟野氏のことを指していると考えられるのでしょうか。
いずれにせよ、竹駒詣著者は茂ケ崎の地で粟野宗国(重国)が伊達氏有力家臣として活躍していたことを強く認識していたのではないでしょうか。
(写真1)茂ケ崎城址から望む仙台市街
②宮沢宗禅寺が粟野国重の菩提所であることについて
①で触れたように粟野国重というのは粟野宗国(重国)のことであると考えられることを踏まえると、確かに宮沢宗禅寺には粟野重国の墓があります。宗禅寺は大年寺山と仙台市街の間に位置しており、広瀬川の辺に建つ曹洞宗の寺です。現在では墓だけでなく、重国のことを記した石碑がそばに建てられているので、ぜひ立ち寄ってみてください。
(写真2)
以上、今回は茂ケ崎城と粟野氏を中心に紹介してきました。茂ケ崎城や粟野氏についてはまだまだ分かっていないことも多く、あまり知名度もありませんが、これを機に仙台の伊達政宗以前の歴史にも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
次回はもう少し進んで古寺を紹介したいと思います!!
【竹駒詣を紹介します~過去記事~】
・その1(http://saigaibunkakenkyu.livedoor.blog/archives/6762689.html)
・その2(http://saigaibunkakenkyu.livedoor.blog/archives/7410504.html)
・その3~大年寺~(http://saigaibunkakenkyu.livedoor.blog/archives/8042975.html)
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