皆様こんにちは、日本史研究室の下総介です。
ブログでは八乙女館巡検以来になります。八乙女館の記事はお城界隈の方々にも少し見て頂きましてありがとうございました。
(記事→学生でもできること、みんなでするから楽しいこと。(八乙女館巡検))
日本城郭史学会の会員でもある私は、お客様が来る度に仙台城をご案内していますが、みちのく古文書同好会でも毎年恒例(?)のツアーを開催いたしました。
諸事情から今年度の開催は8月になりましたが、おかげで復旧したばかりの石垣を見ることができました。

<見事な本丸北面石垣>
今年は国際センター駅に集合して、仙台の地形を理解した後、初期の大手道で本丸までのぼり、二の丸造営以降の大手道で降りて二の丸を見学する、フルコースでの実施です。2年前の記事(4月23日 仙台城御歩きの会 レポート)とおよそ同じルートになります。
夏季の実施ということで、仙臺緑彩館・仙台城見聞館で休憩するなど熱中症対策にも気を遣いました。
さて、例年と異なったのは、馬出に関する議論を紹介したのと、復旧された石垣を見学した部分でした。
仙台城の変遷を辿る上で欠かせない二つの事柄、じっくり堪能しましたので、参加されなかった方のためにもレポートいたします。

<慶長期に設定された当初の大手道にある清水門の高石垣(1期)>
まずは馬出の方。
そもそも馬出とは何でしょうか。実はこれ難しい問題だと思うのですが、広く定義すると、城の門(虎口)が直接外側に晒されないように、門の外側に防御設備を伴う空間を作ったもの、と言えるでしょうか。この定義だと、外桝形の虎口との区別は難しいですが、外側の空間が独立していると「馬出」だと思います。仙台藩では混同して使われているような気がしますが。

<馬出のイメージ 攻城団ブログ【お城の基礎講座】66. 馬出(https://blog.kojodan.jp/entry/2020/10/26/180000)より転載>
仙台城には藩の史料に「馬出」と公称される空間が二か所あります。一つは子の門の前、もう一つが巽門の前の空間です。子の門の空間は巽門の前の空間を意識して後から設定されたものと思われるので、名実ともに「馬出」と呼べる空間は巽門の前だけだと思います。
仙台藩では、どうもこの馬出を城の正面の在り方として、規範化したらしいのです。この点は太田秀春さんが論文で指摘されています。(「仙台藩の城郭にみる格式意識」『地方史研究 52(2)』2002年)

<「仙台城下五釐卦絵図」に見える巽門の馬出(中央)と子の門の前の「馬出」(右)>
仙台城では追廻地区に練兵場が作られた際、陸軍がこの部分を破壊したため残っていません。一昨年の追廻公園整備の中で発掘調査があり、地中遺構は残っていることが確認されましたが、公園整備が優先され、地表には何の説明版も設置されませんでした。仙台城にとって非常に重要な遺構であるだけに、残念でなりません。
馬出が注目されるのは豊臣秀吉が天正14年から京都に造営した聚楽第に採用されたことです(越中の方では少し先行するものもあるのですが)。全国の大名が京都や秀吉のもとへ訪れる際、それを目の当たりにすることになったこと、これが重要です。
馬出が持った役割も、15世紀代から各地で見られる軍事的な色の強い馬出から、聚楽第を経て儀礼的な役割への変化が想起されています。主要部への正門前に位置させ、番所などを設けて検問をおこなう空間として使ったと考えられる点です。謁見に際しての儀礼上必要な手続きとして、そうした空間が求められたのではないでしょうか。

<聚楽第タイプ 『歴史家の城歩き』高志書院,2016年 より>
馬出の成立過程については議論が尽きず、今年も若手による編年試論の発表が相次いで発表されているところなのですが、ここではとりあえず、東北に持ち込まれたのは聚楽第の天正14年以降、ということにしておきます。聚楽第タイプと呼ばれる設計をしたのは蒲生氏の会津若松城と大浦(津軽)氏の弘前城だけですが、慶長期になると花巻城などでも馬出を設定したりします。

<花巻城の説明板 赤字から線が伸びているところが馬出です>
仙台市内でいえば、先日ご紹介した八乙女館にはこの馬出が設定されています。館主と考えられる八乙女氏は国分再乱の後、天正16年に所領安堵を受けたと『伊達世臣家譜』は伝えています。細かい議論は尽きないですが、仮にこの頃にしましょう。仙台付近では何故か正面の馬出が破壊されまくるので、遺構が残っているのは貴重です。天正期に遡る可能性のある馬出の現存例としては、ほかに岩出山城のものもあります。

<八乙女館縄張図(作図:N)の原図 馬出部分(再掲)>
江戸時代になっても馬出は重要視されたようです。仙台藩最北の金ヶ崎要害(岩手県胆沢郡)では寛永6年に留守氏が去ってから断絶を挟み、寛永21年から再度二の丸だけ使用されます。二の丸から直接外部に出る門が作られているにも拘らず、馬出(外桝形状)の虎口を持つ従来の虎口を使い続けています。金ヶ崎のすぐ東隣の岩谷堂要害でも、旧大手道には同様の構造を持っていました。むろん領内全ての城に馬出が取り入れられた訳ではありませんが、白石城では江戸時代になってから新たに作ったりもしているようです。

<金ヶ崎城跡の解説板 絵図中央の方形の虎口に注目>
豊臣政権が京都に用いた馬出は、やがて五大老を中心とする豊臣縁故の大名らによって積極的に使われ、最後は皮肉にも大坂城包囲網として作られた天下普請の城に用いられて流行します。しかし天正から文禄慶長、そして元和と時代を経るごとに、新しいプランの門が流行るようになります。それが二つの門で囲まれた四角い空間を持つ桝形門と呼ばれるものです。これこそが、徳川の正面プランとして規範化されるのです。実際、江戸城では二つの馬出が消滅し、桝形門へ転換していることが指摘されています(齋藤慎一「江戸の改変ー文禄・慶長期の様相ー」『東京都江戸東京博物館紀要(11)』2021年)。
そしてその中間点に位置するのが未完成の内桝形と馬出がセットで用いられている事例です。天下普請の城では多く見られますが、天下普請ではないこの仙台城もそれにあたります。仙台城は慶長6年築城、まさに豊臣期と徳川期の「狭間」です。仙台城には本丸に三か所の内桝形虎口が設定されていましたが、いずれも櫓門のみで桝形を閉じない形をしています。門の形が変わっていく過渡期のものです。
仙台城を全国的な城館の潮流の中に位置づける上で、この巽門の馬出は非常に重要なのです。
併せて、子の門の前に堀などを伴わない簡易的な構造物を作って、それを「馬出」と呼ばせた仙台藩は、徳川政権下にあっても、馬出にこだわりを持っていたようです。また仙台藩の馬出には、面積が小さく片側のみ開口するという独特の共通性を持っています。
一方で、仙台城二の丸が造営された寛永15年時点では馬出は作られていません。寛永5年に造営された若林城に馬出があったのかはわかりませんが、胆沢郡の岩谷堂要害では、万治2年に伊達宗規が北向きの大手を南向きに付け替えた際に、新たな大手門は内桝形の虎口となりました。17世紀の中頃までに規範意識が薄れている辺り、独自性の表現していたものから徳川政権へ恭順したことを読み取る、、、というのはもう少し論証が必要ですね。二の丸を正面につける仙台城大手門の年代についても、慶長後半か寛永か、議論がありますので、さらなる検討が必要になってくるかと思います。
続いて石垣の方。
令和三年の地震で崩落した石垣の復旧工事が完了し、8月1日から市道仙台城跡線の通行が開始されました。これにより三時期ある石垣を全て見ることができるようになりました。

<本丸北西面石垣の1期~昭和補修~3期石垣のグラデーション>
今回注目だったのは本丸北西面石垣に、積み方の差から崩れやすさが読み取れるという点でした。この積み方が強い、弱いというのではありません。崩れやすいところほど何度も積み替えるので、新しい時期の石垣が残るのです。
特に面白かったのは酉の門の石垣、もともとの地山の尾根を削り込んで内桝形の虎口を作っていますが、桝形の内側で切り土した部分だけ1期(慶長期)の乱積みの石垣が残っていたのです。一方桝形を構成する土塁を支える石垣は一度崩落したのか2期頃、地山の外側に盛土で作った市道側の石垣は大規模に3期石垣なのです。この3期石垣が、東日本大震災や、この度の地震でも崩れています。石垣の弱さとは、背面の地盤の強さなのでしょう。

<酉の門の石垣。左から3期~1期、2期(奥)~3期の石垣が一目で見られる>
東日本大震災では仙台市北部の大規模造成団地で建物に大きな被害が出ましたが、被害の大きさにムラがあったと言います。被害の大きかった場所は埋められた谷と切土の境界の部分、埋土が船のように揺られた結果だったそうです。
中世という時期は、人間と自然の力関係が転換した時期と言われます。大地を削り、川を付け替え、水のないところに用水を引く、そうした造成工事が、中世末から近世にかけて大規模におこなわれるようになりました。この時期を通して、城や山寺が培ってきた土木技術は、自然を克服しようとします。城の石垣とそこから読める災害の痕跡を読むことは、人間と自然との葛藤、あるいは対話を見出すことに他なりません。

<大橋から青葉山を望む>
石垣から続く擁壁技術の進歩を以て自然を克服した人間の讃美歌と読むことも、繰り返される盛土部分の崩落被害を以て自然に対する敗北の痕跡と見ることもできましょう。当たり前に忘れ去っている足元の危険度を、皆さんに考えて頂くきっかけになれば、この石垣はとても面白いのだと思います。

<石垣復旧工事中の様子 2024年11月16日>
長くなりましたが、仙台城はいろんなコンテクストの上に置くことができる、とても面白い遺跡です。また来年もガイドツアーをできたらいいな、と思います。

<最後に呑み会! 厚すぎる刺身を頂きました😋>
ここまでお読みいただきありがとうございました。それでは。
(※馬出のイメージ画像以外は全てこもんどうメンバーの撮影です)
ブログでは八乙女館巡検以来になります。八乙女館の記事はお城界隈の方々にも少し見て頂きましてありがとうございました。
(記事→学生でもできること、みんなでするから楽しいこと。(八乙女館巡検))
日本城郭史学会の会員でもある私は、お客様が来る度に仙台城をご案内していますが、みちのく古文書同好会でも毎年恒例(?)のツアーを開催いたしました。
諸事情から今年度の開催は8月になりましたが、おかげで復旧したばかりの石垣を見ることができました。

<見事な本丸北面石垣>
今年は国際センター駅に集合して、仙台の地形を理解した後、初期の大手道で本丸までのぼり、二の丸造営以降の大手道で降りて二の丸を見学する、フルコースでの実施です。2年前の記事(4月23日 仙台城御歩きの会 レポート)とおよそ同じルートになります。
夏季の実施ということで、仙臺緑彩館・仙台城見聞館で休憩するなど熱中症対策にも気を遣いました。
さて、例年と異なったのは、馬出に関する議論を紹介したのと、復旧された石垣を見学した部分でした。
仙台城の変遷を辿る上で欠かせない二つの事柄、じっくり堪能しましたので、参加されなかった方のためにもレポートいたします。

<慶長期に設定された当初の大手道にある清水門の高石垣(1期)>
まずは馬出の方。
そもそも馬出とは何でしょうか。実はこれ難しい問題だと思うのですが、広く定義すると、城の門(虎口)が直接外側に晒されないように、門の外側に防御設備を伴う空間を作ったもの、と言えるでしょうか。この定義だと、外桝形の虎口との区別は難しいですが、外側の空間が独立していると「馬出」だと思います。仙台藩では混同して使われているような気がしますが。

<馬出のイメージ 攻城団ブログ【お城の基礎講座】66. 馬出(https://blog.kojodan.jp/entry/2020/10/26/180000)より転載>
仙台城には藩の史料に「馬出」と公称される空間が二か所あります。一つは子の門の前、もう一つが巽門の前の空間です。子の門の空間は巽門の前の空間を意識して後から設定されたものと思われるので、名実ともに「馬出」と呼べる空間は巽門の前だけだと思います。
仙台藩では、どうもこの馬出を城の正面の在り方として、規範化したらしいのです。この点は太田秀春さんが論文で指摘されています。(「仙台藩の城郭にみる格式意識」『地方史研究 52(2)』2002年)

<「仙台城下五釐卦絵図」に見える巽門の馬出(中央)と子の門の前の「馬出」(右)>
仙台城では追廻地区に練兵場が作られた際、陸軍がこの部分を破壊したため残っていません。一昨年の追廻公園整備の中で発掘調査があり、地中遺構は残っていることが確認されましたが、公園整備が優先され、地表には何の説明版も設置されませんでした。仙台城にとって非常に重要な遺構であるだけに、残念でなりません。
馬出が注目されるのは豊臣秀吉が天正14年から京都に造営した聚楽第に採用されたことです(越中の方では少し先行するものもあるのですが)。全国の大名が京都や秀吉のもとへ訪れる際、それを目の当たりにすることになったこと、これが重要です。
馬出が持った役割も、15世紀代から各地で見られる軍事的な色の強い馬出から、聚楽第を経て儀礼的な役割への変化が想起されています。主要部への正門前に位置させ、番所などを設けて検問をおこなう空間として使ったと考えられる点です。謁見に際しての儀礼上必要な手続きとして、そうした空間が求められたのではないでしょうか。

<聚楽第タイプ 『歴史家の城歩き』高志書院,2016年 より>
馬出の成立過程については議論が尽きず、今年も若手による編年試論の発表が相次いで発表されているところなのですが、ここではとりあえず、東北に持ち込まれたのは聚楽第の天正14年以降、ということにしておきます。聚楽第タイプと呼ばれる設計をしたのは蒲生氏の会津若松城と大浦(津軽)氏の弘前城だけですが、慶長期になると花巻城などでも馬出を設定したりします。

<花巻城の説明板 赤字から線が伸びているところが馬出です>
仙台市内でいえば、先日ご紹介した八乙女館にはこの馬出が設定されています。館主と考えられる八乙女氏は国分再乱の後、天正16年に所領安堵を受けたと『伊達世臣家譜』は伝えています。細かい議論は尽きないですが、仮にこの頃にしましょう。仙台付近では何故か正面の馬出が破壊されまくるので、遺構が残っているのは貴重です。天正期に遡る可能性のある馬出の現存例としては、ほかに岩出山城のものもあります。

<八乙女館縄張図(作図:N)の原図 馬出部分(再掲)>
江戸時代になっても馬出は重要視されたようです。仙台藩最北の金ヶ崎要害(岩手県胆沢郡)では寛永6年に留守氏が去ってから断絶を挟み、寛永21年から再度二の丸だけ使用されます。二の丸から直接外部に出る門が作られているにも拘らず、馬出(外桝形状)の虎口を持つ従来の虎口を使い続けています。金ヶ崎のすぐ東隣の岩谷堂要害でも、旧大手道には同様の構造を持っていました。むろん領内全ての城に馬出が取り入れられた訳ではありませんが、白石城では江戸時代になってから新たに作ったりもしているようです。

<金ヶ崎城跡の解説板 絵図中央の方形の虎口に注目>
豊臣政権が京都に用いた馬出は、やがて五大老を中心とする豊臣縁故の大名らによって積極的に使われ、最後は皮肉にも大坂城包囲網として作られた天下普請の城に用いられて流行します。しかし天正から文禄慶長、そして元和と時代を経るごとに、新しいプランの門が流行るようになります。それが二つの門で囲まれた四角い空間を持つ桝形門と呼ばれるものです。これこそが、徳川の正面プランとして規範化されるのです。実際、江戸城では二つの馬出が消滅し、桝形門へ転換していることが指摘されています(齋藤慎一「江戸の改変ー文禄・慶長期の様相ー」『東京都江戸東京博物館紀要(11)』2021年)。
そしてその中間点に位置するのが未完成の内桝形と馬出がセットで用いられている事例です。天下普請の城では多く見られますが、天下普請ではないこの仙台城もそれにあたります。仙台城は慶長6年築城、まさに豊臣期と徳川期の「狭間」です。仙台城には本丸に三か所の内桝形虎口が設定されていましたが、いずれも櫓門のみで桝形を閉じない形をしています。門の形が変わっていく過渡期のものです。
仙台城を全国的な城館の潮流の中に位置づける上で、この巽門の馬出は非常に重要なのです。
併せて、子の門の前に堀などを伴わない簡易的な構造物を作って、それを「馬出」と呼ばせた仙台藩は、徳川政権下にあっても、馬出にこだわりを持っていたようです。また仙台藩の馬出には、面積が小さく片側のみ開口するという独特の共通性を持っています。
一方で、仙台城二の丸が造営された寛永15年時点では馬出は作られていません。寛永5年に造営された若林城に馬出があったのかはわかりませんが、胆沢郡の岩谷堂要害では、万治2年に伊達宗規が北向きの大手を南向きに付け替えた際に、新たな大手門は内桝形の虎口となりました。17世紀の中頃までに規範意識が薄れている辺り、独自性の表現していたものから徳川政権へ恭順したことを読み取る、、、というのはもう少し論証が必要ですね。二の丸を正面につける仙台城大手門の年代についても、慶長後半か寛永か、議論がありますので、さらなる検討が必要になってくるかと思います。
続いて石垣の方。
令和三年の地震で崩落した石垣の復旧工事が完了し、8月1日から市道仙台城跡線の通行が開始されました。これにより三時期ある石垣を全て見ることができるようになりました。

<本丸北西面石垣の1期~昭和補修~3期石垣のグラデーション>
今回注目だったのは本丸北西面石垣に、積み方の差から崩れやすさが読み取れるという点でした。この積み方が強い、弱いというのではありません。崩れやすいところほど何度も積み替えるので、新しい時期の石垣が残るのです。
特に面白かったのは酉の門の石垣、もともとの地山の尾根を削り込んで内桝形の虎口を作っていますが、桝形の内側で切り土した部分だけ1期(慶長期)の乱積みの石垣が残っていたのです。一方桝形を構成する土塁を支える石垣は一度崩落したのか2期頃、地山の外側に盛土で作った市道側の石垣は大規模に3期石垣なのです。この3期石垣が、東日本大震災や、この度の地震でも崩れています。石垣の弱さとは、背面の地盤の強さなのでしょう。

<酉の門の石垣。左から3期~1期、2期(奥)~3期の石垣が一目で見られる>
東日本大震災では仙台市北部の大規模造成団地で建物に大きな被害が出ましたが、被害の大きさにムラがあったと言います。被害の大きかった場所は埋められた谷と切土の境界の部分、埋土が船のように揺られた結果だったそうです。
中世という時期は、人間と自然の力関係が転換した時期と言われます。大地を削り、川を付け替え、水のないところに用水を引く、そうした造成工事が、中世末から近世にかけて大規模におこなわれるようになりました。この時期を通して、城や山寺が培ってきた土木技術は、自然を克服しようとします。城の石垣とそこから読める災害の痕跡を読むことは、人間と自然との葛藤、あるいは対話を見出すことに他なりません。

<大橋から青葉山を望む>
石垣から続く擁壁技術の進歩を以て自然を克服した人間の讃美歌と読むことも、繰り返される盛土部分の崩落被害を以て自然に対する敗北の痕跡と見ることもできましょう。当たり前に忘れ去っている足元の危険度を、皆さんに考えて頂くきっかけになれば、この石垣はとても面白いのだと思います。

<石垣復旧工事中の様子 2024年11月16日>
長くなりましたが、仙台城はいろんなコンテクストの上に置くことができる、とても面白い遺跡です。また来年もガイドツアーをできたらいいな、と思います。

<最後に呑み会! 厚すぎる刺身を頂きました😋>
ここまでお読みいただきありがとうございました。それでは。
(※馬出のイメージ画像以外は全てこもんどうメンバーの撮影です)
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