みやさかです。今回は、私たちが古文書教室で読んだ往来物の中から『松嶋往来』を取り上げたいと思います。これは、文化4年(1807)に仙台で出版された往来物です。当時の仙台には、国分町を中心に多くの本屋が存在し、往来物をはじめとして様々な本が出版されていました。仙台で出版された往来物には、仙台を出発地として各地の名所旧跡を案内しているものが様々あり、『松嶋往来』も前回の『竹駒詣』もそうしたものの一つです。今回の『松嶋往来』は、仙台を出発し、道中の名所旧跡をめぐりながら、松島、さらには平泉や秋田の象潟まで案内する内容となっています。実際にそれらの場所を訪ねてみましたので、これからその一部を紹介したいと思います。

 

 まず、仙台を出発して最初に紹介される名所は、「躑蠋岡」です。現在の榴岡公園周辺の地域を指しますが、古くからの歌枕の地とされ、『松嶋往来』には、源俊頼が詠んだ「とりつなげ玉田横野のはなれ駒つつじが岡にあぜみ花さく」の和歌も挙げられています。続いて、「天満宮」や「木の下薬師」、「尼寺」などを案内しています。天満宮は、榴岡天満宮です。社地には、現在も江戸時代に建てられた多くの歌碑や唐門(下の写真)などが残り、当時の様子を窺い知ることができます。木の下薬師は陸奥国分寺薬師堂で、尼寺はその東にある陸奥国分尼寺です。いずれも天平期からの歴史を持ち、薬師堂や仁王門、天平期の礎石など見どころがたくさんあります。また、木の下という地名は、歌枕の地としての由緒も持っています。

 ここから、いよいよ仙台の城下町を出て、東へと進んでいきます。様々な名所を巡っていますが、ここではその一部を紹介します。まずは、東仙台の燕沢にある善応寺で、「通元(玄)禅師開基」と紹介されています。詳しく調べると、この地には元々伊達美作守の別荘があり、4代藩主伊達綱村がこの屋敷跡を通玄禅師に与え、開山としたようです。現在、境内には通玄禅師の像と位牌を祀る開山堂があります。続いて紹介されるのは十符の浦です。これは、十符の菅を栽培した池のことで、古来の歌枕の地とされ、綱村が菅守を置いて保護しましたが、現在は住宅地となっており残念ながら面影は窺えません。沖の石、末の松山は、いずれも百人一首にも詠まれる有名な歌枕の地で、末の松山は小高い地となっており歌の情景と重なります。また、沖の石(奥の井)はそこから少し下ったところにあり、現在は住宅地の中にあります。ここも十符の菅のように、綱村が奥井守を置いて保護しました。

 
今回はここまでとしますが、これから先、多賀城跡、鹽竈神社、松島…と足を伸ばしていきます。この続きについては、また次の機会に紹介したいと思います。

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