こんにちは。みやさかです。

名所めぐり1から引き続いて、『松嶋往来』の名所を紹介したいと思います。
まずは多賀城跡です。本文には「多賀之古城、壺碑、恵美朝臣修造にして、天平宝字六年と有之」とあります。「壺碑」は歌枕ですが、江戸時代に多賀城跡から古碑が発見されると、それと重ねられて名所として広く知られることになりました。恵美朝臣は藤原朝獦(あさかり)のことですが、朝獦は時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)の子で、天平宝字六年(762)に多賀城を修造した折にこの碑を建てました。

現在、多賀城跡は史跡として整備され、正殿をはじめとする当時の政庁の建物の礎石や土塁などが復元されて、かつての規模が偲ばれます。

 

さて、続いては鹽竈神社です。本文には次のようにあります。「塩竈明神へ参詣、本社瑞籬(たまがき)美を尽し候、就中(なかんつく)珍らしきは神前の燈篭、文治三年和泉三郎寄進と有之、六百年来の俤(おもかげ)眼前に浮(うかみ)、義士の勇名そゞろに馨(かんば)しく候」

ここに出てくる和泉三郎は、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の子の忠衡のことです。忠衡は兄泰衡の源義経殺害に賛同しなかったために殺されたとされており、ここでもそれを踏まえていると思われます。この燈籠は鉄製で、現在も文治燈籠と呼ばれて拝殿前に残っています。
鹽竈神社は古くからの歴史を持つ神社ですが祭神については不明な点が多く、元禄年間になって4代藩主伊達綱村により鹽竈神社縁起が選定され、それに基づいて現在の社殿が建てられました(写真は左右宮拝殿で、右にあるのが文治燈籠です)。
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ここで少し余談をしたいと思います。
今まで紹介してきた『松嶋往来』ですが、実は純粋にオリジナルな内容ではなく、どうやら松尾芭蕉の『奥の細道』を意識したもののようです。

例えば、『奥の細道』の鹽竈神社の記述には「朝日、あけの玉がきをかゝやかす」や「神前に古宝燈有、かねの戸びらのおもてに、文治三年和泉三郎寄進と有、五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し、渠(かれ)は勇義忠孝の士也」とあり、先ほど紹介した内容と重なります。実は今まで見てきた名所もほとんど『奥の細道』で芭蕉が訪ねているところです。つまり『松嶋往来』は『奥の細道』をベースとしながら、仙台を出発して名所をめぐるという筋の往来物に作りかえたものと言えます。
当時の人たちは、いにしえに思いを馳せるとともに、約100年前に芭蕉が歩いた道を辿るという意味でもこの名所めぐりを楽しんだのかもしれません。

次回はいよいよ松島を紹介し、さらにその先まで足を伸ばしてみたいと思います。